【試読】はなり亭で会いましょう3

 思い返せば自分の就職活動は散々だった。
 もとより、誰とでもフレンドリーに話せる性格ではなく、初対面の相手には硬い態度を取ってしまうし、気をつけないと表情にも出てしまう。にこやかに、明るく、元気よく……そんな風に、いつでもどこでも、気負わずにできればどんなによいか。 
 しかし、それは絢子にとって、ないものねだり。書類選考はパスできても、面接で落とされることが続いた。
 このまま内定の一つも取れなければ、どうすればいいのかと悩みはじめた頃、ようやく一社から最終面接の声がかかった。面接といっても役員に顔を見せておくことと、最終的な意思確認のようなもので済み、そのまま採用が決まった。
 そして月日は流れ……絢子は今もその会社にお世話になっている。

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小さな決意と夏の夜に消えた想い

 入社したときに配属された場所で、ベストを尽くしてきたものの、絢子は行き詰まりのようなものを感じて久しい。
 一人、また一人と、各自の都合で退職者が出たにもかかわらず、満足な補充がされないまま、気がつけば絢子が総務事務を切り回している状態になっていた。
 一応、補充要員として、新入社員のマユちゃんがあてがわれたが……以前一緒に仕事をしていたメンバーとの戦力差は甚だしい。ベテランと新入社員なのだから、言うまでもない。だからといって、マユちゃんを責めることなどできない。もっと仕事を覚えてもらって、仕事を分担したいが、まだまだ時間がかかりそうである。
 そんなとき、いっそ部署異動を願い出てはと言われたときは、目からうろこが落ちるようだった。そのような変化の方法を、絢子は考えもしなかったのだから。
 だが、異動への不安もある。マユちゃんはまだ、絢子が担当している仕事のほとんどを知らない。もしも自分が異動して、誰かに自分の仕事を引き継ぐのだとしても、上手くやっていけるのだろうか?
 会社の業務に支障をきたすのではないか?
 そんな状況下で、果たして自分は異動先の仕事を覚えられるのか?
 様々な疑問が浮かんでは消えてゆく。
(……でも、希望を書いたからといって、聞いてもらえるとは限らないし……)
 これまでも人事には、人員不足について訴えては来たものの、ろくに対処してもらえなかった事実を考えると、希望を出したところで無視される可能性が高いのかもしれない。ならばダメ元で、一応希望を出してみて、反応を見るだけでもいいだろう。
 そう結論づけた絢子は、提出期限が迫った人事考課書類への記入を終え、提出を済ませる。ほんの少しの希望を書くだけなのに、ずいぶんと気力を使ったように感じられた。

***

 その日は特に仕事が多かったわけではないが、異動を希望する旨を申し出るという大仕事にひどく疲れを感じた。だから、絢子は思い切って翌日、有給を取ることにした。
 消化できずに溜まっては消えてゆく有給休暇は、今に始まったことではない。でも、これも上手く消化できるよう、考えていくべき事柄だ。
 帰り際にマユちゃんが「明日、絢子さんがいないと思うと不安ですぅ……」と、目を潤ませて訴えてきたが「そろそろ一人前にならないと」と励ましておいた。
 もちろん、業務に困ることがあれば、電話してくれてかまわないからと、個人的な連絡先も教えている。結局仕事のことが気にかかってしまうから、完全な休日にならないかもしれないが……気にしてもしかたがない。
 さて、明日休みを取るのであれば、今夜は少々夜更かししても問題ない。
 週末でもないのに遅くまで好きなことができるというのは、なんだか贅沢なことだ。
 撮り溜めていた録画を見ながら家飲みを楽しもうか? 
 それとも……
 考えを巡らせていると、なんだか楽しい気分になってくる。仕事は気にかかるが、今はこのひとときを楽しみたい。気づくと最寄り駅に到着しており、絢子は人の波に押し流されるようにして改札を抜ける。
 この頃にはもう、絢子の気持ちは固まっていた。
 今夜は、はなり亭で思う存分、一人飲みを楽しもう! 
 寒さも感じられるようになってきたし、こんな夜は燗酒もいいかもしれない。
 本格的な冬の気配を感じ、駅の外に出ると外気が容赦なく体温を奪ってくるが、不思議と寒さが苦にならなかった。

 心なしか軽やかな足取りではなり亭の暖簾をくぐると、いつものようにアルバイト店員の涼花ちゃんが席に通してくれた。ムダのない動きでおしぼりやお品書きを持ってきて、さりげなく今日のおすすめも教えてくれる。
 メニューを手に取りながら調理場に目をやると、店主でもある料理人の御厨は忙しく手を動かしており、その隣でアルバイトの男子店員(確か、宮田くんだっただろうか?)が手伝っている様子。週末の夜というわけではないが、なんとなく今日は客入りも多いようで、注文が立て込んでいるのだろう。
 絢子はどの料理を頼むか迷いながら、茄子の煮浸しと揚げ出汁豆腐、蒸し鶏と野菜の和え物を注文した。
 はなり亭は、客に好きなものを選んで食べて欲しいという気遣いから、お通しを出していない。ありがたい配慮だが「とりあえずこれを……」という感じで、最初に食べられるものがあってもいいなと、絢子は個人的に思っている。
 そして、最初の一杯には、最近入ってきたという新酒を頼んだ。
 十二月に入り、今年仕込んだ新酒がそろそろ出回っているらしい。まだ品数は限られているが、もう少しすれば「しぼりたて」「初しぼり」といったものを目にする機会も増えるだろう。
 新酒だから特別美味しいというものではないが、できあがったばかりの新鮮な日本酒には、独特の味わいがある。初々しいフレッシュさや、発酵由来のガス感も新酒によく見られる特徴。日本酒は四季折々の表情を見せてくれる存在なのだと実感する。
「今年出来立ての、あたごのまつ純米吟醸です」
 そう言って、涼花ちゃんがグラスに注いでくれたお酒は、白濁したおりがらみと呼ばれるタイプのお酒だった。口にする前からフルーティーな香りにくすぐられ、味への期待が高まる。いい具合に注がれたそれを、そっと手にして口に含めば、果実のような爽やかな香りに、新酒らしい刺激を伴った味わいが広がった。
 本当に日本酒は奥が深いと実感させられ、今、このときに味わっているものを大切にしたいと絢子は心から思った。
 最初の一献を味わっているうちに、茄子の揚げ浸しと、蒸し鶏の和え物が届いた。
加熱された茄子はトロリと甘く、出汁の染み方も絶妙だ。この出汁の味わいだけでも、お酒が進みそうになる。しつこくない旨味を強調した料理は、サッパリとした新酒との相性も悪くない。自然とグラスに手が伸び、次の一口が欲しくなる。
 蒸し鶏と野菜の和え物も、鶏肉と野菜の食感の違いが引き立って面白い。甘辛い味噌を使った味付けがしつこくなく、ほどよくお酒を誘ってくれる。
 そんな感じで、店に来てまだ十五分と経っていないのに、最初の一杯が空いてしまった。スイスイと飲みやすかった新酒のせいか、酒の進む料理の味のせいか……おそらくは両方だろうと、絢子は思う。
 調理場の作業は相変わらず立て込んでいるようで、忙しく動く御厨は目が合った時に少し会釈をしてくれたきり、特に会話はなかった。個人経営の店なのだから、そんなものだ。絢子は特に気にとめず、次の一杯を考える。
 最初の一杯は季節感のあるさわやかな新酒を求めたが、次は違う飲み口もいいかもしれない。そうだ、燗酒で温まるのも、これからの季節は悪くない。そう思った絢子は、こちらの様子に気づいた涼花ちゃんに声をかけ、 はなり亭で置いている定番の日本酒を燗でもらうことにした。
 頼んだ揚げ出汁豆腐と燗酒が絢子の元に届いたのは、ほとんど同じくらいだった。
 揚げ出汁豆腐はカウンター越しに御厨から、燗酒は忙しくも的確に動く涼花ちゃんから届けられ、しばし至福の時間を過ごす。
 御厨は料理を渡しがてら絢子に対し「バタついててお構いできず、すんません」と、気まずそうにしていたが、店が賑わっているのは繁盛の証拠。気にしないでと軽く返して、一人の時間に没頭する。
 不本意なこともあるけれど、一応は自分で働いたお金で生活できているし、時々はこうして、ゆっくりと自分の好きなことにお金を使える。
 女性としての特性を考えれば、そろそろ結婚して出産を考えるべき年齢なのだろうが、それに振り回されて自分を押し殺す結果になれば、果たしてそれは幸福なのか? 
 そう思えば、今の自分は、自身の幸福をとことん追求し、誰にも迷惑をかけずに活きているのだから、それを誇るべきではないのか……?
 絢子の心の中を、様々な思いが駆け巡る。
 そしてふと……あのとき付き合っていた相手と将来を誓い合っていたなら、今の自分はどうなっていたのかと思い至る。
 それは時折、絢子の心によみがえっては、不愉快な結末を遺していく話。何の成果もない、つまらない「たられば」であり、むしろ絢子を縛ってしまう過去だ。
 それを打ち消すように、絢子はかぶりを振って、それ以上考えないようにした。
(馬鹿だ……こんなこと、いい加減忘れたいのに)
 そう思っていても性分とでもいうべきか……絢子は一度でも深く想った相手のことを、なかなか心から消せない。
 女性の恋愛は上書き保存だと言われるが、恋愛経験が年相応に積めていない絢子には、上書きされずにいつまでも残ってしまっている過去が多い。
 別に、相手への未練があるわけではない。けれど……釈然としない別れ方であり、相手の態度に傷ついたこともあったから、心に深く影を落としているのだ。
 気分を切替えようと、絢子は運ばれてきた揚げ出汁豆腐に箸をのばす。出汁がしみた衣は少し、箸で切るのに難儀したが、一口大にして口に運ぶ。はなり亭自家製豆腐の味わい深さと、出汁がしみた衣の美味しさが口の中で優しく溶け合う。ふわりと鼻に抜けていく出汁の香りも絶品で、沈み込みそうな絢子の気持ちを支えてくれた。
(お出汁だけでもお酒が飲めそう……)
 心にも染みるような味わいに、深く感心させられ、絢子ははなり亭の味を堪能する。
過ぎたことを考えたところで、どうにもならない。大切なのは、これからをどうしていくかだ。だから、心を鬼にして、マユちゃんを残して有休も取ったし、ひとりの時間も大切にしている。

 そんな感じで、気がつくと結構長居をしてしまっていた。
 それなりにお酒と料理を楽しんだものの、堂々巡りな考えにとらわれて、モヤモヤしながら飲み続けた自分に対し、なんともいえない嫌悪感を覚えてしまう。こんなつもりで飲みに来たのではないというのに。
 そろそろお暇しなければと思い、目が合った御厨に会計を願い出ようとしたときだった。
「あの、重森さん、今日ってこのあと、時間あります?」
「え?」
 絢子は御厨から、思いがけない誘いを受けることになったのだ。
 聞けば、今日は少し早めに店を閉める予定で、お店のメニューなどについて会議するのだという。そして、足繁く通う顧客の代表として(?)絢子の意見も聞きたいから、時間があるなら残ってもらえないかという打診をされた。
 正直、このあとの予定を聞かれたとき、絢子の心臓は痛いほど飛び跳ね、落ち着くまでに息苦しさを覚えるほどだった。
 しかし、フタを開けてみれば、単なるお店の方針会議であり……いや、いち常連客として、お声がかかるのは名誉なことだが、一瞬でも跳ね上がった自分の心が馬鹿馬鹿しい。
「実はちょっと、店のメニューていうか、これからの方針に迷てるとこがあって……お客さんの意見も聞いた方が、参考になると思てたところに、今日、重森さんが来はったから……」
「そう……だったんですか。分かりました。ちょうど明日は休みを取ってたんで、お役に立てれば幸いです」
「おおきに。ありがとうございます。そしたら、ぼちぼち店閉めるんで……」
 客の多くは会計を済ませて出ていたようで、賑わっていた店も静かな空気になっている。残りの客もこれから帰る様子だった。絢子も一旦、会計してもらい、お店が閉店する様子をぼんやり眺めていた。

***

 閉店後のはなり亭は、絢子がいつも夜のひとときを過ごしている場所とは違う空気に包まれる。なんとなく参加を承諾したものの、本当に自分がここに居ていいものかと不安がよぎった。
「あの、私でよかったんでしょうか?」
 不安に思った絢子は、御厨に声をかける。
 自分は、はなり亭の常連客だという自覚はある。でも、ほかにもっと、頻繁に来ている人はいるはずだし、自分の来店頻度は月に一、二回程度。多くても三回行くかどうかだ。
 涼花ちゃんの成人祝いをしたいがために、間を空けずに来てしまったこともあるが……それは例外的なことである。
 だから、こんな自分が、常連代表でよいのかという疑問が拭えない。
「いや、重森さんやからいいんです。いつも、料理の感想が率直ゆーか、変に偏ったらへんし。お酒に合うもんは合う、合わへんもんは、ちゃうのがえぇて言わはるさかい、結構参考にさせてもろてます」
「え? そ、そうなんですか? 何か……失礼なこと言ってたらすみません」
 思わず絢子は謝罪する。御厨が新開発したという料理は、とりあえず頼んでみることが多かったが、毎回、お酒に合うとは言いがたかった。
 もちろん美味しいときは、このお酒に合いそう、これならあのお酒の燗と……などと語っていたし、いまひとつだと感じたときは「もう少し味付けがはっきりしたほうがお酒の味も引き立ちそう」とか「野菜の切り方が大きすぎて食べにくいから、一口がもっと小さければ味も染みてもっと美味しそう」などと、具体的な改善点を述べたつもりだ。
 しかし、あらためて考えてみれば、専門家でもないのにずいぶん勝手なことを言っていた気がする。
「失礼やなんてそんな……僕はちょっと鈍いさかい、お客さんの率直な意見がないと、変な方に進んでしまうんです」
そう言って恥じ入るような御厨の様子はなんだか新鮮で、ちょっと滑稽なような、愛らしいような感じがした。

「えっと、そしたらみんな、カウンターに座ってもらおかな」
 お店の片付けが一段落したところで、御厨が音頭を取った。いよいよ作戦会議スタートのようである。
 店主である御厨は調理場側に立ち、絢子と今日のアルバイトに入っていた涼花ちゃん・宮田くんがカウンター席に座った。
 こうして涼花ちゃんとカウンター席で隣り合うのは、彼女の成人を祝いたくてはなり亭を訪れた時以来。あのときは、たまたま涼花ちゃんもはなり亭で食事に来ていたらしく、今日と同じように宮田くんも居た。
 奇しくもあのときと同じ状態が再現されているようで、なんだか不思議な気分になる。
 涼花ちゃんは仕事のあとだというのに、なんだか楽しそうな様子だ。きっと、はなり亭のことに携われるのが嬉しいのだろう。仕事熱心な様子はとても好感が持てる。
 対して宮田くんは、あからさまに疲れたような、ちょっと不機嫌にも見える表情だった。お店の営業時間中はそんな表情を見ることはなかったので、オン・オフの切り替えがあるタイプなのかもしれない。
 御厨はひとまずカウンターに並ぶ三人に、箸と取り皿、水の入ったグラスを配った。
「ええと、とりあえず今日はお疲れさんです。そんで、改めて今から、はなり亭の作戦会議したいと思います」
 場を取り仕切るのになれていないのか、少したどたどしい様子で御厨が切り出した。
「実はもう少ししたら、来年の春には店を手伝うてくれてたアッシー……大河内が抜けてしまうんで、店のやり方とか、メニューとか、考え直さなあかん状態で……で、とりあえずはメニューを今後どうしていくんがいいかとか、考えたいと思います」
 なるほど、これまでとお店の体制が変わるのであれば、メニューの見直しや店休日の設定が必要だろう。
 はなり亭は自家製豆腐と鶏料理をメインにしつつ、季節のおばんざいや御厨の創作メニューがあり、個人店にしてはラインナップが豊富である。しかも、一人客も品数多く注文できるよう、少なめに出してくれる。
 一人飲みを好む絢子にとってはありがたいのだが、メニューが豊富になるほど必要な材料も増え、食材の管理が難しくなるだろう。せっかく食材を取りそろえても、思っていたほど注文が入らなければロスになり、お店にとっては損失だ。
 今日は平日の割に客入りが多かったかもしれないが、はなり亭はそれほど大人数が押しかけるような店ではない。団体向けの座敷を含めても、二十人いかないくらいでいっぱいである。
 それを考えると、品数豊富に用意するのは、小さな店にとってリスクが高い行為だ。
 また、メニューが増えるほど注文が入ったときの調理手順を考えなければならない。これまで助けてくれていた存在が欠けるなら、調理の手が上手く回るように考えたメニュー構成も重要だろう。
「そんなわけで……重森さん、どうです? うちのメニューって、多すぎる思います? 僕は来てくれはる人に、色んなもん食べていってもらいたいんですけど……」
「そうですね……確かに個人のお店にしては多いのかな? って印象です」
 声をかけられた絢子はやや緊張しながら、言葉を続ける。
「他のお店だと、小さいところならメニューをかなり限定されていますし……数が多くても調理が簡単だったり、ほとんどそのまま出せるものだったりしますから。あと、全体的にはなり亭のお料理って、手がかかってる割にお安くいただけて……もちろん嬉しいんですけど、お店側の利益とか手間とか考えると……ってところでしょうか?」
「やっぱり、重森さんもそう思いますよね! ほら、御厨さん。やっぱり今の状態だと色々ロスが多いですし、御厨さんも時々、調理がいっぱいいっぱいな時があるでしょう? 一度メニューを整理しないとですよ」
 隣に居た涼花ちゃんが絢子の意見を引き継いでくれた。お店側の立場である彼女が同じ意見で発言してくれるのは、なんだか頼もしく感じる。
「もちろん、余ったお料理とか材料とか、持ち帰らせてもらえて助かってるんですけど……でも、効率を考えないとですし、お店の利益も出るようにしないと」
「やっぱり、そうなんかなぁ……樹希くんはどう思う?」
「うーん、大河内さん居なくなったら、俺が調理の補助して……ってことで、今、色々教わってますけど、全メニューできるようにって言われたら、多すぎてしんどいですね」
「いや、別に今すぐ全部なんて言わへんよ? ちょっとずつ覚えてくれたらええし……」
「でも、俺、ただのバイトですよ? それはセンパイもですけど、バイトが入れ替わったときのことも考えとかないと、しんどいんじゃないですか?」
「うーん……」
 店に来てくれる人に、色々な味を楽しんで欲しいという御厨の姿勢は好感が持てる。
 でも、現実的なことを考えなければ、お店そのものが危うくなるのだ。御厨はメニューを減らすことに抵抗があるようだが、アルバイト二人の意見ももっともである。
「あの、御厨さん。私は別に、お店のメニューが今より少なくなっても、はなり亭に来なくなることはないと思います。それに、選択肢が多いと選ぶのが大変な面もありますし」
「あぁ、そうなんですか……それは考えてなかったですわ」
 御厨としては、たくさんの料理から選べる方が喜ばれると思い込んでいたらしい。
 絢子はせっかっくの機会だからと、思っていたことを続ける。
「たとえばですけど、サクッと一杯だけ飲んで帰りたい人とか、初めて来た人がはなり亭の味を試すのにちょうどいい感じの、お酒一杯とおつまみセットみたいなのがあると、いいんじゃないかって思うんです。お通しの代わりに頼んでもいいですし……お客さんは選ぶ手間がなくて、お店側も準備しやすいんじゃないですか?」
「なるほど……」
 絢子が提案したセットメニュー案については、アルバイトの二人も同意してくれ、試作メニューを少量だけ用意して三種盛りのひとつにし、客の反応を見てはどうかという意見も出てくる。
 御厨が思う豊富なメニュー提供については、コース料理の予約が入ったときに振る舞うようにすれば、普段から多様な材料を用意しなくても良さそうである。
 その後も色々な意見が飛び交い、御厨は熱心に発言を書き留めていた。
「……あと、はなり亭って、日本酒のメニューもいろいろあるので、飲み比べができると楽しいなって思います」
 場の雰囲気にも慣れ、絢子は自分の希望を率直に伝えた。
 銘柄が多くあるのは日本酒好きとして嬉しいのだが、飲める量には個人差が大きい。みんながみんな、何杯も飲めるものではないのだが、せっかくなら色々試したいと思うもの。
 だから、お猪口に一杯ずつ試飲するような感じの飲み比べができれば、それほどお酒に強くない人も、複数の銘柄が楽しめる。
「ただ、他の飲み物よりも提供に手間がかかりそうかなっていうのが、ネックですね」
「でも、私も飲み比べセット、いいと思います! あ、飲み比べセットとおつまみ三種セットっていう組み合わせも楽しそうですね!」
「あ、それなら、お酒と料理の組み合わせも試せそうね」
 涼花ちゃんと意見が重なり、なんとなく会話が弾んでしまう。こんな風に、この子と二人でお酒を飲む機会が持てたら楽しいだろうなと絢子は思った。
「そしたらちょっと、飲み比べセットとおつまみセット……今あるもんで作ってみよか」
 そう言うと御厨は残っている料理や材料をみつくろって、適当な皿に盛り付ける。
「とりあえず……背肝の甘辛煮、茄子の煮浸し、ひと口冷や奴の三点。お酒は……」
 カウンター席の三人にそれぞれ盛り付けた料理を渡し、御厨は日本酒の入った冷蔵庫から、飲み口の違うお酒を三種類選んで、細長い皿の上に並べたお猪口に注ぐ。
「こんな感じやろか?」
 即席で用意されたセットだが、盛り付けの良さもあって、お店のメニューらしく仕上がっている。
「せっかくやし、食べて感想教えてください」
「ありがとうございます。……というか、いただいてしまってすみません」
「えぇんです、お店のことに協力してもろてるんやし、これくらいしかできませんけど」
 営業中にそれなりに飲み食いはしたものの、少し時間も空き、料理やお酒の話をしていたものだから、お腹が空いてきたところだ。ちょっと食べ過ぎかもしれないが、目の前に用意された料理とお酒の誘惑には敵わない。御厨の厚意に甘えていただくことにする。
「ちょっと、御厨さん、宮田くんはまだ未成年なんですからお酒は……」
 絢子に渡したのと同じように、涼花ちゃんにも飲み比べセットを出した御厨は、その流れで宮田くんにもお酒を用意しようとしていた。しかし、涼花ちゃんの発言によると、彼はまだ二十歳になっていないらしい。
「……あ、そやったな」
「えー、俺だけ仲間はずれ?」
 自分だけお酒がもらえないことに、不満を漏らす宮田くん。ちょっぴり不機嫌だった表情がさらに曇ったが、少し頬を膨らませている様子がなんだか可愛らしく、絢子は少し笑ってしまった。
「樹希くんはとりあえずこれで、堪忍してや」
 そう言うと御厨は宮田に対してウーロン茶を差し出す。不服な様子だったが、それ以上不満を口にせず、宮田はウーロン茶を飲みながらおつまみセットを食べ始めた。
 絢子と涼花も続くようにして、お酒を飲み比べながら盛り付けられたおつまみを楽しんだ。図らずも涼花と並んでお酒を飲む機会に恵まれ、絢子は嬉しくなってしまう。
 あり合わせで用意されたおつまみセットだったが、味付けや食感の違いが楽しめる内容だったので、お酒との組み合わせを考えるのが楽しい。
 背肝の甘辛煮は味と食感がはっきりしているので、低精米の純米酒とも相性が良い。茄子の煮浸しは出汁の味が効いているから、それを引き立てるものが良いのではないか?
 そんなことを涼花と話し合いながら飲むお酒は、とても美味しく感じられた。
 絢子の前にある飲み比べセットのお猪口が空いたのを見た御厨は、新しくお酒を持ってきては、どんな料理に合いそうか意見を聞いてくる。意見の対価として振る舞ってくれているようだが、こうも次々とお酒をすすめられるのは、いささか気が引けてしまう。
「あの、御厨さん。お気持ちは嬉しいですけど、そんなにいただくわけには……」
「まぁ、そう言わんといてください。こんな風に話聞かせてもらうなんて、滅多にないことですし」
 やんわりと断ろうとするも、これまたやんわりと押し通されてしまう。物腰は柔らかいが、少々強引なところもあるのかなと、絢子は御厨の性格を改めて知ることとなった。
 絢子の隣にいる涼花ちゃんも、すすめられるままに一杯、また一杯とお酒を味わっては感想を述べ、料理との組み合わせを楽しんでいるようだが、気がつくとずいぶん酔っ払っている様子。
(よく考えたら、私と同じペース飲んで、涼花ちゃん大丈夫なの?)
 楽しい時間を過ごすあまり、隣にいる年若い存在への気遣いが後回しになっていた。
 酔いが回っていると思われる涼花ちゃんの様子はというと、機嫌良さそうにニコニコしており、顔はほんのりと赤い。
「涼花ちゃん、ちゃんとお水も飲んでる? お酒を飲むときは水分も摂らないと……」
「はいー。……れすね~……ふつかょぃわ、しんどぃです~」
 ……多分、二日酔いになったらしんどい、ということが言いたいのだろう。呂律が回らない様子だ。幸い、自発的に水の入ったグラスを手に取り、ごくごくと飲んでいるが……これ以上お酒を飲ませてはいけない。というか、こうなる前に様子を気にかけるべきであったと、絢子は反省する。
 御厨も宮田くんも、涼花ちゃんが出来上がってしまったと悟ったようだ。
「あ~、堪忍。涼花ちゃん、今日はもうお酒止めとこ。もう、えぇ時間やし、今日は解散にしよか」
「ふぇ? もう、おしまぃ? もっと重森ひゃんとのみたひのに……」
 ふわふわした動きで、涼花ちゃんは絢子の肩を掴んで甘えるしぐさを見せる。
 その様子を見てか、心なしか宮田くんの視線が厳しくなったように感じられたが、今は酔っ払ってしまった涼花ちゃんの対応が先決だ。
「涼花ちゃん、もう遅いから、この辺にしましょう? 一緒に飲むのはまた、別の時でもできるんだから……」
「……ん~……はぃ……」
 絢子に諭され、残念そうな様子を見せながらも、なんとか承諾してくれた。
 しかし解散するにしても、この状態の涼花ちゃんを一人で帰らせるのは心配である。
 タクシーを呼んで乗せてあげるべきか……でも、車内で気分が悪くなってしまうかもしれないと考えると、誰かがついていく必要がある。
「えーっと、御厨さん。涼花ちゃんのことですけど……」
「あ、それな……さすがに一人で返すわけにはいかへんので……」
「じゃぁ、俺がセンパイを家まで送っていきますよ!」
 意気揚々と宮田が名乗り出てきたが、御厨は難しい表情を見せる。
「いや、樹希くん、それはやめとこ? 多分、なんもないとは思うけど、気まずなる原因、作りたないやろ?」
「気まずくって……別に俺……」
「分かってる。樹希くんはえぇ子やから。けど、こんな場面で助けられんのは、涼花ちゃんは複雑かもしれへん。せやし……」
 言いながら御厨は絢子の方へ視線を移す。
「申し訳ないんやけど、重森さん。涼花ちゃんを家まで送ってもらえませんか? タクシー代くらいは用意しますんで」
「私は構いませんけど……でも、結構出来上がっちゃってますし、車に乗せて気分が悪くなっても……と思うんですよね」
 対応を検討しているうちに、気づけば涼花ちゃんウトウトしている。
 もう少しくつろげる場所で介抱してやりたいところだ。そう思った絢子は、思い切った提案をした。
「あの、私の家、ここから近いですし、涼花ちゃんを家に泊めてもいいでしょうか?」
「あ、それやったら安心ですけど……でも、ご迷惑やないですか?」
「いえ、迷惑というほどでも。それに今日は、色々ごちそうになってますし、そのお返し……ということで、お世話させてもらえたら」
「そうですか、そしたらお言葉に甘えて……」
 話がまとまったので、絢子は涼花ちゃんの肩を優しく揺すり、起きるように促す。
「涼花ちゃん。もう片付けるみたいだから帰りましょう? 少しなら歩ける?」
「うーん……? 帰る……?」
 けだるげな様子で涼花ちゃんは体を起こす。
「そう、涼花ちゃんのお家まで送ってあげてもいいけど、途中で気分が悪くなったら大変だし……私の家で休んでいかない? すぐ近くだから」
「重森さんのおうち……?」
「そう。すぐそこだから、歩ける?」
「行きます!」
 飛びつかんばかりの勢いで立ち上がった涼花ちゃんは、そのまま絢子の腕を掴んできた。
 酔いのせいでテンションが高くなっているらしい。きっと、今ならどんなことでも楽しく感じるのだろう。
「じゃぁ、荷物を持って。忘れ物しないようにね?」
「はい!」
 こうして、上機嫌の涼花ちゃんを引き受け、絢子は自分の家に帰ることになった。お店の片付けは御厨と宮田くんとでやるらしい。
 絢子も手伝いたいところなのだが、涼花ちゃんを早く落ち着けるところまで移動させなければならないので諦めた。
 店を出ようとしたところで、二人は宮田くんに呼び止められる。
「……いくら近所でも女性二人で、しかも一人は酔っ払いじゃ、危ないでしょう? 俺もついていきますよ」
「え? でも、すぐ近くだし……」
「絶対大丈夫って言い切れます? 何かあってからじゃ遅いんですよ?」
「まぁ、そうだけど……」
 宮田くんの意見ももっともだが……二人を気にかけてというよりは、彼の視線にはなにか挑みかかるようなものが含まれている気がした。
「店の片付けなら、お二人を送ったあとに戻ってやりますから……いいですよね、店長?」
「そやな……うん、そうしよか。樹希くんは二人を送ってったって」
 こうして、三人で絢子の家まで行く流れになった。
 涼花ちゃんははずっと絢子の手を掴んで離さず、ご機嫌な様子で歩いている。宮田くんは、そんな二人と少し離れて歩いていた。
 はなり亭から絢子の家までは、徒歩五分もかからない距離だ。夜道の危険を案じるのも分かるが、そんなに気遣ってもらうほどでもない。とはいえ、用心に越したことはないのだから、宮田くんが付いてきてくれるのは心強いことではある。
「二人は同じ大学なんだっけ?」
「そうなんです」
「サークルが一緒で、センパイともっと一緒に居たくて、バイト紹介してもらったんです」
 すぐ近くとはいえ、無言のまま歩き続けるのも気まずい気がして、絢子は当たり障りのない話を切り出した。
接点を増やしたいのは、後輩くんの男心ということか? 
 などと、絢子は若者たちの関係に思いをはせる。自分にもこんな頃があったと思うと、不思議な気分だ。
「でも、なかなか距離、縮められないんですよね~。店で会うだけの重森サンより、俺の方が一緒に居る時間、長いはずなのに……頼ってもらえるのは俺じゃないんですもん」
「まぁ……その、私のほうが年上で、同性だから頼りやすいんじゃないかな?」
 拗ねたような口ぶりで宮田くんは言った。
 彼はずいぶんと涼花ちゃんに好意を持っているらしい。意中の相手からの反応が思うように返ってこないというのは、もどかしいものだ。
「ちょっとぉ~、宮田くん。重森さんになんで突っかかるの~?」
「……別にそんなんじゃ。……ちょっと羨ましくて……」
 涼花ちゃんから嗜められたからか、少し宮田くんの声はトーンが落ちていた。
 この二人の関係は、まだお互いの気持ちのバランスが取れていないのかもしれない。
 そんなやり取りをするうちに、絢子が住むマンションに到着する。
「ありがとう。家はここだから、もう大丈夫よ」
「そうですか。では、涼花センパイのことよろしくお願いします」
 簡単に挨拶を済ませ、宮田くんは来た道を引き返していった。

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