【試読】はなり亭で会いましょう4

「どうして異動を希望したんですか? 私、絢子さんが居ないと、どうしたらいいか不安で……」
「ほらほら、可愛い後輩ちゃんもこう言ってるんだし……シゲさんがお姉さんとして何とかしてあげたほうがいいんじゃないの?」
 二人からの無責任な言葉に、絢子は目眩のような感覚に襲われた。
 人事異動があれば業務の引継ぎや今後の対応を考えねばならず、面倒ごとも多い。自分が抜けることで負担が増える人が出るのも確かだ。
 けれど、それは従業員の一人に過ぎない絢子が慮ることだろうか?
 キツい言い方にならないよう頭を抱えつつ、絢子は慎重に言葉を探す。

前向きな変化と予兆

 正月休みが明けた職場には日常の空気が戻り、一月も半ばに入った。今はまだ比較的落ち着いた時間が流れているが、二月、三月が来るのはあっという間だ。絢子は経理部の塚本に背中を押される形で異動希望を出しており、新年度から違う部署になる可能性も見え始めているから、のんびりしていられない。
 無論、希望を出したからといって必ず聞き入れられる訳ではないし、その他の調整もあるだろう。ただ、社内の多方面に顔が利く塚本が推してくれている状況を考えると、絢子の異動は非現実的でもないように思える。
 もしも異動となれば、業務の引継ぎが発生する。その時になってから困らないよう、資料は早めに揃えて置きたい。それに、今回は異動がなかったとしても、引継ぎを想定した資料作成は今までの業務を見返す機会にもなるだろう。だから絢子は、通常業務をこなすかたわらで資料作成も進めている。
 それと並行して、プライベートな予定では転居も考えていた。嫌な別れ方をしていた元恋人・征也と遭遇する機会が立て続けに起こり、用心のため今の住居から離れたいと考えてのことだ。
 征也との関係は一方的に責められて連絡が途絶え、自然消滅のような形で別れたはずだった。しかし向こうはどう思っているのか、十年の空白なんてなかったかのように、再会した絢子に馴れ馴れしい態度を取ってきて不愉快だった。
 だから遭遇リスクを減らすため、絢子は居を移すことを決めた。

 そんなふうに忙しく過ごす絢子だったが、ある日、後輩のマユちゃんが目を潤ませ乍ら何かを訴えてきた。
 彼女は何か仕事で困ったことがあると、すぐに泣きついて「でも・でも・だって」の末、絢子に解決してもらいたがっているのは知っている。絢子としてはいつまでも新人気分で居てもらっては困るし、少々のことは自分で対処してほしいのだが、本人の意識を変えていくのは難しいものだ。
 そして彼女が今回、訴えてきたのは人事異動に関する話のことだった。
「絢子さん、経理部に異動するって、ホントですか?」
「……え? それ、誰から聞いたの?」
「誰からって言うか……なんか、そんな話聞いちゃって。全体忘年会の時も絢子さん、経理部メンバーの人と、楽しそうにしてたっていうし……」
 人事に関する具体的な話はまだ何も出ていないが、人の口に戸は立てられない。年末に参加した忘年会の席でも、絢子が経理部への異動を希望している旨が一部には知られているようだったから、その流れで他部署にも広まったのだろう。
「異動するっていうか……ずっと同じ部署のままより、違うことにチャレンジするのもいいかなって。それで希望を出しただけで、まだ異動が決まったわけじゃないし……」
 ひとまずは不安そうなマユちゃんを宥(なだ)める。ただ、こんなのはその場しのぎの方策だ。もしも本当に絢子が異動したら、こんな調子でマユちゃんは一体どなるんだろう?
 異動する絢子の後釜にも何らかの人物が入るはずだが……次はその人に「でも・でも・だって」で泣きつくのだろうか?
 万が一、入社員が投入されてしまったら、マユちゃんが先輩として引っ張らなければならないのだが……。
 今後を考えると、マユちゃんの自立をもっと促す必要がある。
 そう考えていたところで、絢子の元へ一枚の書類が差し出された。
 体にかすりそうな位置に突然出されたため若干の立ちを覚えつつ、差し出してきた人物のほうを見ると、そこには成果トップを誇る営業課のエース・海堂の姿があった。
「これ、契約本決まりだから、後の処理よろしく」
「……この書類の処理は私ではなく、佐々木さんに担当を変えたと先月通達したはずですが?」
 海堂から差し出された書類を一瞥し、絢子はマユちゃんを名字で呼んで担当違いであると指摘する。
「えー、そうだっけ? 去年のことだから忘れたわ。でも別に、シゲさんからマユちゃんに渡してくれてもいいでしょ?」
 相手にしても不毛なだけと、絢子は苛立つ心を抑えながら書類を受け取り、マユちゃんへ渡す。
「そういうことだからマユちゃん、この書類、手続きをお願いね?」
「えっと……それって、前にやったことありましたっけ? お正月休み挟んだら、わかんなくなっちゃいました」
「……」
 確かに、長期の休み明けや、たまにしかやらない業務は、何から手を付けていいか戸惑うものだ。絢子だって仕事始めの日は、年末にどこまで自分が仕事を進めていて、何を持ち越していたかを把握するのにほとんどの時間を使った。
 でも、もう正月休みは明けて、一月も半ばだ。
 そして絢子が渡した書類の処理については、過去数度に渡ってやり方を指導しているし、その上で担当変更の旨を職場全体にも通知している。
 だと言うのにマユちゃんは自分が担当している自覚がないのか、平然と「わからない」と言ってのけた。少しは考えるなり、過去の履歴を振り返るなりして、自分で解決しようと思わないのだろうか?
 溜息をつきたくなるが、キツくあたっているように見られて、周囲の誤解を生むのもまっぴらだ。以前、年の離れた後輩への接し方に問題があるのではと、人事に謂(いわ)れなき指摘をされたこともある。
「最後に私が確認するから、今までのこと思い出しながら出来るところまで自分でやってみて?」
 自分でやったほうが早いのかもしれないが、それではマユちゃんがいつまで経っても成長しない。できる限り穏やかな口調で伝えると、渋々といった様子でマユちゃんは受け取った書類に目を通し、過去の資料を引っ張り出しながら手続きを進めだす。
 ひとまずこれで解決かと思ったが……海堂が余計なものを投下してくれた。
「ところシゲさん。経理部に異動希望してるって、ホント? 俺、シゲさんが業務事務をまとめてくんないと、困るんだよね~」
 営業部は情報が早いのだろう、マユちゃんが噂を耳にするくらいだから、当然、海堂も絢子が異動を希望している話を知っているようだ。
「そう言われましても……それは海堂さんの希望であって、私の希望ではないですよね? でしたら、とやかく言われる筋合いもないと思いますが?」
「えー、だけどさー……他のみんなも困ると思うよ? マユちゃんだって、シゲさんが隣に居てくんないと、嫌だよね?」
「はい。困っちゃいます。私何も出来ないのに……。だから、海堂さんも絢子さんに行かないでって、お願いしてください」
 よりにもよってマユちゃんに対し、そんな風に話を振るものだから、話が蒸し返されてしまう。
「どうして異動を希望したんですか? 私、絢子さんが居ないと、どうしたらいいか不安で……」
「ほらほら、可愛い後輩ちゃんもこう言ってるんだし……シゲさんがお姉さんとして何とかしてあげたほうがいいんじゃないの?」
 自分のキャリアとして部署異動を願うのは、そんなに非難されることなんだろうか?
 絢子とて今の部署を離れることへ不安はあるが……業務全体のフローやバランスについては会社や人事部が考えることだ。絢子には何の責任もない。
 しかし、この二人は絢子が異動すると自分たちが不利益を被(こうむ)ると訴える。
 どうして自分の考えは尊重されないのだろう?
 自分の希望を叶える行動をしてはいけないのだろうか?
 絢子は心のままに、昏(くら)い気持ちをぶちまけたくなったが、感情的になっても解決しない。以前、宴席で気持ちに任せた非礼な振る舞いをした反省から、ぐっと堪(こら)える。

 自分を大切にしてくれない人の言葉なんて、気に留める必要あるかしら?
 そんな言葉に、いちいち傷つくほどの価値なんて、ある?

 いつか彩華から言われた言葉が、絢子の心に蘇る。
 なじみの居酒屋はなり亭で知り合った、同世代の女性・宮田彩華。はなり亭でアルバイトしている宮田くんの年の離れた姉であり、彼女は自分の容姿にも仕事にも自信を持ち、活き活きと活動している。
 ぐいぐいとこちらの領域へ入ってくるから最初は苦手に感じたが、言動には筋が通っており感心させられるところも多かった。彼女の発言に反感を覚えたこともあったが、いつしか自然と受け入れられるようになっていたし、何より彩華は自分の意見を主張するだけでなく、相手の意思も尊重してくれる。
 一方、マユちゃんも海堂も、自分たちが困ると訴えるばかりで、絢子のことなんて何も考えていないし、尊重してくれない。自分を大切にしてくれない人から何と言われても、その言葉は気に留める価値などないのだ。
そう思い直すと、いくらか気持ちが軽くなるような気がした。

口コミ評価と悩める店主

 クリスマスに年越しと、十二月後半の大イベントは過ぎ、涼花は実家で新年を迎えた。
 二十歳を迎えてから最初のお正月ということもあり、おせち料理と一緒に日の高いうちからお酒をいただくのは新しい体験だった。
 また、ずっと自分の両親はお酒を飲む習慣がないものだと思っていたが、どうやら二十歳未満の子の前で大っぴらな飲酒は控えていたらしい。涼花が二十歳を迎えたため、実家での飲酒も正式に解禁されたようだ。
 楽しいお正月を満喫したいところだが、休み明けに提出しなければならないゼミの課題もあり、アルバイトの予定も入っている。もう少しゆっくり過ごしたい気分もあったが、涼花は三が日が明けないうちから、京都の下宿先へと戻った。

「御厨さん、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」
 今年最初のアルバイトだからと、涼花は店主である御厨に深々と頭を下げて新年の挨拶をした。
「こっちこそ、今年もよろしく。お正月くらいゆっくりしてたいやろけど、来てくれてありがとうな」
「いえいえ。実家でダラダラ過ごしちゃうより良いですし」
「で……新年早々、言いにくいんやけど……」
 御厨は少し困ったような、でも苛立ちも感じているような表情で、出禁にした客がいることを伝えてきた。
 何でも昨年のクリスマス頃にやってきた男性客が、常連女性の重森と知り合いのようだったが、横暴な態度が目に余ったため御厨が退店させたという。重森も絡まれて、随分参っている様子だったらしい。
 その日、涼花はシフトに入っておらず、今まで知らされていなかった。
「その日は樹希くんもおって、一緒に追い出したんやけど……面の皮が厚いんか、また入ってこようとした日があって、追い出してて。そういうことがあったさかい、涼花ちゃんにも言うとかなあかんか思て。巻き込みたなかったさかい黙っとったんやけど、仲間はずれにして堪忍な」
「そんなことがあったんですね! 特徴とか、どんな感じですか? 私も見かけたら追い返しますね!」
 重森は時折、一人飲みをしに来る女性客であり、涼花が憧れている存在だ。その彼女を困らせるような人は、客になって欲しくない。
「いや、涼花ちゃんは見かけても直接声かけへんほうがえぇ思うし、僕か樹希くんに言(ゆ)うて? 危ないことはさせたないし」
「でも……」
 そう言われると、自分は役に立てないようで悔しくなる。迷惑な男性客への対応は女性店員の涼花よりも、御厨や宮田などがしたほうがいいのかもしれないが……「自分にできないこと」があるのは悔しい。
「涼花ちゃんが頑張ってくれんのは嬉しいけど、ああいう手合いは自分より弱見える相手ほど、強う出て面倒なことになりそやし。涼花ちゃんは、涼花ちゃんにできる方法で助けてくれたらえぇから」
「……はい」
 その後、出禁にした男の特徴を情報共有され、いつものように開店準備に取りかかる。はなり亭はおいしい料理と食事を楽しんで、寛いでもらう場所だ。「お客様は神様」なんて言葉もあるが、神様だって全部が全部、幸福をもたらす存在ではないし、そもそも信仰の自由だってある。
 お店に相応しくない存在は、信仰すべき神でももてなすべき客でもない。だから、店側の判断で追い出すのが正しい。

***

 冬休みも終わり、大学生活が再開した涼花は、顔を出したサークル活動でも新年の挨拶を交わす。もう少しで二年次の後期が終わり、新年度が来れば三年生だ。大学にはまた、新しい学生が入ってくるし、サークルの顔ぶれも入れ替わるだろう。
「涼花、ちょっといい?」
 ぼんやりと近い未来の様子を思い描いていたところで声をかけられ、涼花は現実に引き戻される。声の主は同じサークルで活動する同学年の早絵だった。
「何?」
「涼花がバイトしてる居酒屋って、はなり亭って名前だっけ?」
「そうだけど、どうかした? お店の予約?」
「違う。ちょっとこれ、見て?」
 早絵は少しぶっきらぼうな言い方をしてきたが、それはいつものことだ。
 涼花は早絵が差し出してきたスマートフォンの画面をのぞき込む。どうやら飲食店の口コミサイトらしく、はなり亭の情報も載っていた。そして……
「え? 最低評価がこんなに……?」
 口コミサイトはお店の感想だけでなく、何段階かの評価を付けられるところが多い。そして、早絵が見せてきた口コミサイトには最低を意味する星一つ評価が、はなり亭に対して多数投稿されていた。
「このサイトだけじゃなくて、こっちとかも……」
 そう言って早絵が表示を切り替えた先のサイトでも、同様の低評価が集まっている。ほとんどはコメントなしで星一つ、または最低とする評価が入っていた。
 数少ないコメント付きの投稿を見ると「店主は女ばかり贔屓にしている」だとか「店主が気に入ってる女性客に話しかけたら追い出された」という旨の書き込みが目に入る。
「これって……」
 御厨から聞かされた、出禁客が頭をよぎる。もちろん、確証などないが……追い出された腹いせに低評価を付けて嫌がらせをする可能性も考えられた。
「一応、知らせといたほうが良いかと思って。なんか、ここ最近で急に低評価な投稿が続いてるみたいだから……誰かが意図的にやってる可能性もあると思う」
 早絵に評価投稿日を指摘され、ますます出禁になったことへの報復ではないかという疑いは強まる。
 適当にフリーのメールアドレスを用意すれば、一人で複数のアカウントを持つのも簡単だ。多数の意見が集まっているように見えて、実は一人の人間が投稿していたという話も聞いたことがある。
 嫌がらせともとれる行為に憤りを感じた涼花は、御厨に伝えねばと強く思った。アルバイト先を同じくする後輩の宮田にも話を持ちかけたところ、彼も先日、不自然な低評価を見つけて御厨に言おうと思っていたらしい。
「うちの店長、いい人ですけど、こーゆーネットの口コミとか広報とか、疎すぎですしね。SNSの一つもやればいいのに」
 宮田はその端正な顔を少し曇らせながら、ややオーバーリアクション気味に溜息をついて答えた。
「確かにそうだよね。はなり亭って、お店のホームページもないし、レビューサイトの情報もお客さんからの投稿内容だけだから」
 そういった方法に頼らなくても、一定の固定客は付いているし、口コミや誰かのレビューを見たという新規客も時々やってくる。だが、不自然な批判が集まる状況は問題だ。
 涼花は宮田と話し合い、一緒にはなり亭でアルバイトするタイミングで御厨に伝えようと決めた。

Posted by