【試読】はなり亭で会いましょう1
その日、自宅近くにある居酒屋「はなり亭」は少し慌ただしい様子だった。
店主である御厨によると、予定していた人員が減ってしまい、急遽入ってくれた、アルバイトの女の子と二人で予約の団体客を捌く羽目になっていたらしい。そんな状況であるにもかかわらず、ふらりとやって来たお一人様の自分を受け入れてくれたことに、素直に感激した。
お一人様OKと掲げる店でも、それは積極的に歓迎していない場合もままある。空席が目立つ状態よりは、一人客でも居た方が売り上げに繋がる。だから、一応受け入れ姿勢は見せるけれど、その日の状況次第では売上としては微弱な、一人客はを断るというのはよくあることだ。そしてそれを非難する権利も私にはない。
だからこそ、断られても仕方がない状態だったはなり亭で、顔なじみの客だからと入れてもらえたことが嬉しかった。ますますこの店が好きになるだろう。また来たいと思うのだろう。
だからだろうか……少し差し出がましいような、お節介なようなことをしてしまった。いつもの自分なら、他のお客さんとお店側のやりとりに口をはさむようなことはしないけれど、この時は恩返しのような気持ちが働いたのかもしれない。
「ありがとうございました、またお願いします」
ひと通り、お酒と料理を楽しんでお会計を済ませると、調理場を離れられない御厨に代わってアルバイトの女の子が見送ってくれた。今日、突然この店で働くことになり、不慣れなこと続きで大変だっただろうなと思う。けれど、不慣れながらも一生懸命に取り組む姿は好感が持てた。
「こちらこそ……頑張ってね」
ささやかな労いの言葉を返して、私ははなり亭を後にする。料理やお酒の美味しさも大切だが、それに加えてお店からの気遣いが感じられる場所は居心地がよく、大切にしたくなるものだ。嫌なことは忘れて、今夜はよい夢を見よう。そう思える夜になった。
お試しバイトとお客様
「おおきに、ありがとうございます。またお願いします」
会計を終え、気持ちよくお酒の回った団体客を見送ったはなり亭の店主・御厨は、その姿が見えなくなったのを確認してから、店先の暖簾を外す。
「今日はちょっと早いけど、しまいにするわ。お疲れさん。今日はありがとうな」
「いえ、ただ御厨さんの作ったものを運んでただけですし……」
洗い物や食器の片づけをしている涼花に、労いの言葉がかけられたが、そんなにありがたがられるほど、お店に貢献できていたかと考えると微妙だ。
(何というか、成り行きでお店を手伝ってただけだし……)
涼花はやや複雑な気持ちになりつつも、柔らかな表情でそう言ってくれる御厨の言葉には嘘はないように感じ、少し照れ臭くなった。そして今日、この店で働くことになった経緯を振り返る。
「そう言えば、りょーちゃんの研修日とシフト入るのいつから? 私、あさってが研修なんだけど」
「え? 研修日? シフト……?」
それは紅葉も色づき始めた十一月の授業の空き時間。大学で知り合った友人の明菜と、校内のカフェテリアで時間をつぶしていたときのこと。
先日、涼花は明菜と連れ立って、大学近くのショッピングモール内にオープンするというお洒落なカフェのアルバイトに応募し、面接を受けていた。採用者には改めて連絡のうえ、オープン前の研修予定とシフトを決めるという話になっていたが、涼花のところにはまだ何の連絡もない。
「明菜のとこには連絡、あったんだ……」
つまり明菜は採用、自分は不採用。その現実を思いがけず突き付けられ、涼花は肩を落とした。
「りょーちゃんしっかり! 元気出してっ! もしかしたら、なんかの間違いで連絡がないだけかもよ?」
「……まさか。オープン日もうすぐだよ?」
大学進学を機に一人暮らしを始めた涼花は、入学時に見つけた下宿先近くのコンビニでアルバイトをしていた。しかし経営が厳しかったのか、先月そのコンビニは閉店してしまい、新たな働き口を探しているところだ。両親からの仕送りはあるものの、それだけでは質素倹約を極める生活になってしまう。大学生にもなると、それなりに付き合いもあれば、お洒落だってしたいものだ。
特に今回応募したカフェは制服も可愛らしく、SNS映えしそうなメニューを扱った人気店であったため、こんな場所で働けたらという憧れもあったため、不採用のショックは大きい。
(明菜って小柄で可愛いしな……)
アルバイト募集の記事で見かけたカフェの制服は、明菜のような子が着てこそ輝くのだろう。自分はというと、特別背が高いわけではないが、「落ち着いた子」と言われることが多かった。そのせいか、実年齢より大人びた印象を持たれることが多く、明菜のような小柄で可愛い子と並ぶと、どうしてもお姉さんのような感じになってしまう。残念ながら「可愛い」という言葉は、涼花にはあまり縁がない。
「あーあ、またバイト探さないとなー……」
「まぁ、でも、最近人手不足? とかで、バイト募集してるトコ多そうだし、きっとすぐに見つかるよー!」
「んー……そうだね。縁がなかったと思って、次を探すよ」
可愛らしさも可愛い制服のアルバイトも、自分には縁がないのだ。でも、心のどこかで「可愛い」に憧れている自分がいる。だからこそ、あの募集記事で見たような制服を着ることができれば、自分も「可愛い」に近づけるのではないかと思ったのだが、現実は甘くなかった。
なんとしてでもアルバイトを見つけたい!
そう思った涼花はその日、あえて通学に使っているバスには乗らず、下宿先まで歩くことにした。歩いていると通学路内にあるお店を、一つ一つ、観察することができた。お店の前に、アルバイト募集の掲示をしているところも少なくない。コンビニエンスストア、ファストフード店、ファミリーレストラン、スーパーマーケット……いくつかアルバイト募集をしているお店を見つけたものの、どれも涼花には「ピン」とこなかった。早くアルバイト先を見つけなければ、生活に関わるのは重々承知しているが、どうしても不採用になってしまったカフェと条件(主に外見的なイメージ)を比べてしまう。
(正直、この半年くらい……慣れない一人暮らしと、バイトと、大学と……でバタバタしてばかりだったなぁ……)
専攻している語学科の授業は楽しく、サークル活動などで交友関係も広がり、日々は充実している。最初は不安を感じるところもあったが、一人暮らしの生活も慣れてきた。
しかし何か物足りないものも感じる。例えば不採用となってしまった、あのカフェのアルバイトが出来たなら……何か自分にとって大きな変化になったのではないか? キラキラした雰囲気の場所に、自分も仲間入りができれば、もっと輝けたのではないか? そんな期待があのアルバイトにはあったのだ。
ため息交じりに息を吐きだした涼花は、普段は通らない脇道に入ってみることにした。こういったルート変更も、バスに乗っているとできないことだ。脇道に入り少し行ったところで、和風の外観で暖簾のかかった店が目に留まる。
(飲み屋さん……かな?)
涼花が何となくお店の様子を伺っていると、お店の中からは何とも食欲をそそる香りがし、突如、空腹がやってきた。そして出入り口近くの壁に、アルバイト募集の張り紙がある。
(こういうお店だと酔っ払いに絡まれたりしそうだし……オジサン客が多いんだろうなぁ。お店の人も頑固オヤジみたいな感じだったりとか?)
これまでに見つけたものの、却下してきたアルバイト募集情報と同じく、自分の求めているものはこれではないと判断を下しかけたその時、店の中から一人の男性が出て来た。
「あー、いらっしゃい、お一人さんですか?」
「えっ? いや、あの……」
作務衣に前掛け姿の男性は、涼花を客と思ったのか声をかけて来た。店の前に立っていれば、そう判断されても不思議ではないが、残念ながら涼花はここで食事をする予定はない。……中から漂ってくる美味しそうな香りには心惹かれ、空腹を感じるほどではあるが。
どう言えばいいのか、涼花がアルバイト募集の張り紙と、店から出てきた店員とを見比べるように視線をさまよわせていると、何を感じたのか店員は顔をほころばせて涼花に一歩近づいた。
「もしかして、アルバイト探してはります? ちょうどよかった、今日は人手が足りんし、お試しってことで入ってくれへん?」
「ええっ!」
驚き、戸惑う涼花のことなどお構いなしに、店員の男性はにこやかに話を進め、涼花の手を引いて店の中へ案内した。
「可愛いお嬢さんにこんな制服で悪いねんけど、とりあえず着替えて。あ、こっちが更衣室になってるし、内側から鍵もかけられるさかい安心して」
手渡されたのは、店員の男性が来ているのと同じような作務衣と前掛け。店内の様子を見ると、今のところこの男性の他に店の従業員らしき人物は見当たらない。ということは、彼はここの店主なのだろうか? こういったチェーンの居酒屋でない、個人経営の飲み屋の主といえば、口数少なく近寄りがたい頑固オヤジのイメージだった。しかし、目の前に居る彼はもっと気さくで柔らかな雰囲気を持ち、涼花が見たところ、オヤジというほどの年齢でもないように見受けられる。そして彼があまりにも、アルバイトが来てくれたことを喜んでいるようなので、否定するタイミングを失ってしまった。
(まぁ、バイト探してたのはホントだし……「お試し」って言ってたから、とりあえず今日だけでもいい……かな?)
「あ、そや! 君、名前は? 酒は飲めるん?」
「渡辺涼花です。お酒は未成年なんで、飲めないです」
先月誕生日を迎えたものの、涼花はまだお酒が許される年齢には達していない。また実年齢より年上に見られたのかと、涼花は暗い気持ちになった。
「あ、そやったんや。ぼくは御厨喜孝。この店、はなり亭をやってます。今日はホンマありがと。さすがに一人で回すんは、しんどいな思ててん。渡辺さんは救いの女神やわ」
(女神?)
涼花は自身に向けられた言葉に一瞬、耳を疑い冗談かと思った。……が、目の前に居る御厨にはそんな様子はなかった。そう言えばさっきも「可愛い」と言っていた。年上に見られたことで暗い気分になったのも一変、涼花は気恥ずかしいような、くすぐったいような感覚を覚える。
「で、仕事の流れなんやけど……」
御厨の話によると、今日は十数名の団体予約が入っており、当初は御厨のほかに一人、気心の知れた店員が入る予定だったが、体調不良で来られなくなったのだという。状況を見ながら当日の飛び込み客は断るとしても、一人で団体客分の調理をしながら飲み物を用意し、空いた器を下げ……となるとかなり大変であろうことは想像に難くない。
「渡辺さんは出来上がった料理とか運んで、飲み物の用意と……あとは注文取ってくれるだけでええから。飛び込みで来はった人は、このあと予約があって満席やゆうて断ってくれたらええし。分からんことあったら、ぼくに聞いて」
「……わかりました」
こうして思いがけないお試しアルバイトの時間が始まった。
「え……っと、自家製豆腐の冷ややっこと、揚げ銀杏です。で……冷ややっこは塩かお好みで醤油をお使いください」
「おねーさん、生中追加で!」
「あ、俺もー!」
「俺にもー!」
「えっと……生中三つ追加ですね。少々お待ちください」
はなり亭の開店から少し経った頃、予約の団体客が入ってきたので、涼花の仕事も本格的に始まった。事前に受けた指示通り、料理を運んで、飲み物のオーダーを取って、空いたグラスや食器を下げて……という単純な作業ではあるのだが、不慣れな場所なのでそれだけで気疲れしてしまう。
そして調理場からは、これから提供される料理の美味しそうな匂いがして、容赦なく空腹を刺激される。普段なら開店前に賄いを出してくれるらしいのだが、急遽アルバイトをすることになったため、店内設備の説明や注文を取るときの書き方などを教わっていたら、賄いを食べる時間がなくなってしまった。そのことを御厨は随分、申し訳なさそうにしていた。
「生中三つ、追加いただきましたー」
空いたグラスなどを下げながら、涼花は御厨に追加オーダーを伝える。乾杯のときのビールは御厨が注いでくれたが、今回は自分が用意しないといけないだろう。注ぎ方は教わったものの、慣れない作業のため緊張してしまう。
(最初は傾けて、泡を立てないようにして……最後に泡を調整して……)
何とか三つのビールジョッキに注ぐことができたが、泡のバランスが不揃いになってしまった。最初に注いだ分は、すでに泡が減ってきている。
「結構できてるやん」
不慣れな手つきで奮闘する涼花の様子を見ていたのか、御厨がそばに来ていた。
「こぼれてもええし、もうちょっと泡足しといて。こぼれたんは拭いて出したらええさかい、気にせんでええし」
「……はい、すみません」
言われた通り、多少こぼしながらも上から泡を足すと、さっきよりもバランスのいい生ビール中ジョッキが完成した。
「お待たせしました、生中です」
団体客のいる座敷席に運ぶと、すぐさま次の追加注文が入り、涼花は落ち着く暇もない。
どうしてみんな、お酒を飲むんだろう?
ふと、そんな疑問がわいてくる。
涼花自身、まだ未成年であり、実家の家族もあまりお酒を飲む習慣がなかったので、こうして飲み屋で次々とお酒を注文している大人たちが少し、不思議に感じた。サークルの新歓コンパや懇親会はこれまでにもあったが、サークルの中心となっている先輩たちはお酒を飲むタイプではないらしく、カフェ風のお店で夕食会を兼ねたような集まりをすることが多い。
そんなことを考えながら、新たに追加で入ったビールを注いで運び、空いている食器類を下げて回る。
そろそろ次の料理を運ぶ頃合いだろうか? と思っていたところで、ふらりと店に入ってくる一人の女性の姿があった。それまでにも何組か、予約のないお客さんは事前に御厨から出された指示通りお断りしていたのだが、この女性の姿を見るなり、御厨が断りに出ようとした涼花を止めに入った。
「一人なんだけど……今日って、いっぱいだった?」
「いえ、大丈夫ですよ、重森さん。カウンター座ってください」
御厨にすすめられるまま、「重森さん」と呼ばれた女性がカウンター席に座ったので、涼花はおしぼりの準備をする。
よく来るお客さんなのだろうか? それにしても、予約でない客は断ると言っていたのに、どうして御厨は彼女を通したのだろう?
何となく腑に落ちない涼花が重森におしぼりを渡していると、御厨が声をひそめて彼女に話しかけているのが耳に入る。
「実は今日、ぼく一人になってしもてて……急遽、この子に入ってもろてまわしてるんです」
「そうなの?」
おしぼりを受け取りながら、重森は「それは大変」と言葉を続けた。そんな内情をお客さんに打ち明けてしまうなんて、それだけこの女性のことを御厨が信用しているということなのだろうか?
「せやし、申し訳ないんやけど、料理はお任せで出してもいいです?」
「いいですよ、それで。でも、あんまりお腹空いてないから、軽いもので」
「わかりました」
なるほど、気心の知れた常連客であるからこそ、事情を正直に伝えることで、調理の段取りがコントロールできるということか。これならば御厨は団体客のコース料理を作る合間に、彼女に見合った内容の料理を出し、涼花は飲み物の注文を聞くだけで済む。
「えっと、飲み物お伺いしましょうか?」
「この……九郎右衛門の低アルって、まだ残ってる?」
飲み物の注文を聞くだけで済むのだが、涼花はドリンクメニューを見ながら重森が聞いてきた言葉に面食らってしまった。御厨に助けを求めたいところだが、団体客用の次の料理に取り掛かっているようで、フライヤーの中で踊るチキンの様子を見つめており、声をかけづらい。いよいよどうしたものか不安になる涼花だったが、その様子を察してか、重森は日本酒などを入れているガラス張りの冷蔵庫を指さした。
「あの、一番右側の茶色い瓶のお酒。ここからだとラベルがちょっと隠れててて、ちゃんと見えないから……カラフルな模様が入ってて、『十六代九郎右衛門』って書いてあるやつだったら、それが欲しいんだけど」
「あっ……確認してきます」
冷蔵庫から瓶を取り出して見ると、鮮やかな色遣いの模様のラベルが貼られ、『十六代九郎右衛門』と書かれてあった。また、『十三度台九郎右衛門』という表記もある。しかし肝心の中身は何だか心許ない量であった。グラス一杯分になるだろうか? 恐る恐る、涼花は冷酒提供用のグラスに注ぐが、不安は的中し、グラスの七割ほどにしかならなかった。
「その量やったらサービスで出しといたげて」
調理が一段落したらしい御厨が、涼花にそう指示を出してくれた。言われるまま、涼花は重森にグラスを運ぶ。
「こちら、一杯分にならなかったので、サービスさせていただきます」
「あら、いいの? ありがとう」
受け取った重森は、ほんの少し、微笑んだように見えた。
「渡辺さん、これ団体さんとこ持ってって。『和風タルタルソースのチキン南蛮』、ソースには茗荷の甘酢漬けと大葉入れてるし」
「了解です」
先ほど御厨が揚げ具合を慎重に見極めていたチキンは、少し雰囲気の違うタルタルソースとタッグを組んで、美味しそうな一皿に仕上がっていた。大皿を運び、料理の説明をしたところでお決まりのように飲み物の追加を頼まれる。
「おねえさん、この料理に合う日本酒ってどれかな?」
「えっと……少々おまちください……」
またしても日本酒だ。未成年であり、唐突に今日働くことになった涼花には、何もかもさっぱりわからない領域の問題である。急ぎ足で御厨に聞きに行こうとすると、こちらの様子を見ていたのか、カウンター席にいる重森と目が合った。
「チキン南蛮と合わせるなら……酸味のある爽やかなお酒か、タルタルソースに負けない味がしっかりしたものがいいと思いますよ。今のお店のラインナップなら……さわやか系が『澤屋まつもと守破離』、しっかり系が『九郎右衛門』の特別純米あたりですかね?」
思いがけない助け船。重森の挙げてくれた選択肢から、団体客の何人かが日本酒の注文を決めてくれた。注文を取り終え、御厨のところに通す際、涼花はカウンター席に居る重森に礼を言った。
「いえいえ、ちょっと出過ぎたお節介じゃなかった?」
「そんなこと……! 本当に助かりました!」
「私も、お酒のおかわり、お願いできる?」
見ると重森のグラスも空になっている。先ほど涼花と目が合ったのは、追加注文をするために涼花の様子を見ていたからかもしれない。そして、慣れない対応に困っているのを見かねて、自分の注文よりも先に、団体客の対応ができるよう助け船を出してくれたのだろう。飲食店の店員に対して、横柄な態度を取る客の話を聞くことが多いが、それに比べると重森はなんて思いやりあるお客さんなのだろう。これこそが『お客様』なのかもしれないと涼花は感じた。
その後、重森は御厨がお任せで出してくれた料理を、きれいに食べ終えたところで帰ることになった。
「今日はすいませんね、バタバタしてて……」
「いえいえ、ご馳走様でした」
調理場の御厨はお金を触ることができないので、涼花が会計とお金の受け渡しをし、見送ることになる。
「ありがとうございました。またお願いします」
「こちらこそ……頑張ってね」
そう言って店を後にする重森の足取りは、日本酒のグラスを何杯も空けたにしてはしっかりとしたもので、涼花は感心してしまった。いや、足取りだけでなく、酔って乱れる様子もなく、涼花を助けてくれた時のようにシャンとした佇まいで、料理とお酒を楽しんでいる様子だった。一人でお酒を飲みに行く人について、これまであまりいいイメージを持たない涼花だったが、これは新たな発見であった。
店の中に戻ると、団体客の料理もそろそろ〆の段階になっている。慣れないことの連続ではあったが、あと少しで終わりのようだ。
「渡辺さん、それ洗い終わったら、そこ座って」
「……? はい」
暖簾を外し、店じまいしたはなり亭の中で涼花は洗い物の作業をしていた。言われるまま、洗い物を終えた涼花は、御厨に指示されたカウンター席に座る。そういえば重森もこの席に座っていたなと思い出す。
「お疲れ様。遅なったけど、今日の賄い」
そう言って御厨が出してくれたのは、団体客のコース料理で〆に出されていた鶏だし茶漬けと、はなり亭の中心メニューらしき鶏料理をいくつか盛ったワンプレート。慣れないアルバイト中、幾度となく空腹に堪える刺激を与えてくれた、美味しそうな料理が今、自分の食べる分として用意されている。
涼花はまず、鶏だし茶漬けの出汁を、添えられていたレンゲに掬って口にする。しっかりとした旨味のある出汁は、薄味とは思えない濃厚さが感じられ、これだけでどんな食事よりも価値のあるものに感じられた。続いて、出汁を含んだごはんと、細かく裂かれた鶏肉とを一緒に口に運ぶ。噛むたびに肉の旨味が広がり、ごはんは甘く、口に運ぶ手が止まらない。
続いて、ワンプレート仕様に盛られた鶏料理にも箸を伸ばす。団体客に運びながら気になっていた、和風タルタルソースのチキン南蛮も、程よい量が盛られている。口に入れた最初の印象は、普通のタルタルソースと変わらない、マヨネーズ中心の風味だが、アクセントに入れられている茗荷と大葉が和のテイストを導き、アッサリとした印象になっている。程よく揚げられた鶏肉も、淡白な肉質ながら程よい噛み応えで食べ甲斐がある。
鶏料理のプレートと、だし茶漬けを交互に食べすすめる涼花だったが、ふと目に入ったレバーらしき料理に箸が止まる。正直、レバー系は苦手な料理だ。元々実家でもあまり食卓に上ることのなかった食材であり、以前口にしたレバー料理がなんとも独特な風味が強く、涼花に食のトラウマを与えていた。
とはいえ、出された料理はなるべくちゃんと食べるよう、両親から教わってきた。また、一人暮らしを始めてから、慣れないながらも自炊し、食材を無駄にしないよう心がけているので残すのも気が引ける。涼花は意を決して、鶏レバーを料理したものを口に入れた。
「あ……美味しい……」
口に含み噛んだ途端、もっとキツイ風味が広がると思っていたが、そんなことはなかった。嫌な味が舌に残ることもなく、素材のうまみと、醤油ベースの味付けに生姜の風味が足され、味わい深く、ごはんの進む一品になっている。
ふと、視線を上げると、御厨が満足そうに微笑んでいた。
「それで、これからのことなんやけど……」
アルバイト探しをしていた成り行きでkの店にたどり着き、ほぼぶっつけ本番で仕事を終えた。戸惑うことも多く、涼花としては、こういったお酒を提供する飲食店のアルバイトは、選択肢としては考えていなかったが……はなり亭はそれまでイメージしていた飲み屋とは違っていたし、やっとありつけた賄いはとても美味しい。料理を運びながら、何度も空腹を刺激されてきたが、今それが報われたように思えた。
「もちろん、今日の分は今日のうちに渡すけど、出来たら週三くらいで入ってくれへんかな?」
店の前で見かけたアルバイトの条件を思い出す。時給は悪くなかった。お店の営業時間は午後五時から十一時。午後の講義が早く終わる日なら、開店時間から入ることも可能だろう。制服は……憧れていたおしゃれなカフェのそれには、遠く及ばないけれど……それにこだわるのは、子供っぽいような気がしてきた。
「あの……、よろしくお願いします。私、多分、週四でも入れると思います」
「そうか。よかった……ありがとうな」
それから正式にアルバイトをするにあたっての条件説明や、書類への記入をし、二週間分のシフトを決めた。そして、今日のアルバイト料として現金が手渡されたが、働いた時間と提示されていた時給に対して金額が合わず、貰い過ぎではないかと涼花が申し出ると、「臨時手当だから」と御厨に押し切られた。また、涼花が一人暮らしをしていることを気遣ってか、御厨は店のメニューにあるおばんざいや、使い切れなかった野菜などを帰りに持たせてくれた。
(やっぱり貰い過ぎだよね……)
これから、貰った分を働きで返していけるだろうか? いや、返せるように頑張ろう。それから、お酒のことで助けてもらったお客さん……重森がまた店にやってきたら、彼女にも何かを返せるようになりたい。
新しく覚えることも多く、これまでよりも忙しくなりそうだが、何となく感じていた大学生活への物足りなさは、しばらく気にならなくなりそうだ。
「ほな、気ぃ付けて帰ってや。お疲れさん。これからよろしく」
「はい、よろしくお願いします。色々いただいてありがとうございます。」
涼花は足取りも軽く、はなり亭を後にした。